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这次给大家带来的日本经典文学作品是发表于大正三年(1914年)的长篇小说《心》,是日本近代文坛巨匠、批判现实主义作家夏目漱石后期代表作之一。
它是一部利己主义者的忏悔录,深刻揭露了利己之心与道义之心的冲突,至今仍跻身于日本中学生最喜欢读的十部作品之列。
作品鉴赏
《心》 讲述的是“先生”结识并爱上了房东家的小姐,同时也赢得了房东太太的好感,但却因年少时曾受到叔父的欺诈而对他人时存戒心,迟迟不能表白自己的心意。后来,“先生”的好友K住进了房东家里,也爱上了小姐,直率的K向好友“先生"表白了自己的心事,“先生”在表面上批评K“不求上进”,背地里却偷偷地向房东太太提出要和小姐结婚。知道了这一切真相之后的K在绝望中自杀了,同时K的死也留给“先生”一生的不安和自责,婚后的“先生”一直无法忘却K,他的内心无比的寂寞,终于也走上了自杀的道路。
作者通过“先生和我”、“父母和我”、“先生和遗书”三部分内容的描写把明治时代知识分子中利己主义者可恶、可悲、可叹的孤独内心世界剖析得淋漓尽致,集中体现了夏目漱石对“个人主义”思想的认识,以及“个人主义”和国家主义的关系。虽然小说中人物思想意识所赖以形成的社会语境距今已有百年之遥,然而夏目漱石对于明治末期知识分子内心世界的探讨仍然会给人以很多启迪。
节选赏析
私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。
私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は多少の金を工面して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。
学校の授業が始まるにはまだ大分日数があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ぼっちになった私は別に恰好な宿を探す面倒ももたなかったのである。
宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには長い畷を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。
私は毎日海へ入りに出掛けた。古い燻ぶり返った藁葺の間を通り抜けて磯へ下りると、この辺にこれほどの都会人種が住んでいるかと思うほど、避暑に来た男や女で砂の上が動いていた。ある時は海の中が銭湯のように黒い頭でごちゃごちゃしている事もあった。その中に知った人を一人ももたない私も、こういう賑やかな景色の中に裹まれて、砂の上に寝そべってみたり、膝頭を波に打たしてそこいらを跳ね廻るのは愉快であった。
私は実に先生をこの雑沓の間に見付け出したのである。その時海岸には掛茶屋が二軒あった。私はふとした機会からその一軒の方に行き慣れていた。長谷辺に大きな別荘を構えている人と違って、各自に専有の着換場を拵えていない ここいらの避暑客には、ぜひともこうした共同着換所といった風なものが必要なのであった。彼らはここで茶を飲み、ここで休息する外に、ここで海水着を洗濯させたり、ここで鹹はゆい身体を清めたり、ここへ帽子や傘を預けたりするのである。海水着を持たない私にも持物を盗まれる恐れはあったので、私は海へ入るたびにその茶屋へ一切を脱ぎ棄てる事にしていた。
译文
我常常把他称为先生,因此这里也只写作先生,而不公开他的姓名。与其说这是顾忌人言可畏,不如说这样对我更自然一些。每当我回忆起他时,马上就想叫先生,拿起笔来心情也是这样,我实在不愿意使用那种没有感情色彩的缩写洋字母。
我同先生结识时在镰仓。我当时还是一个年轻的学生。因为接到一位正利用暑假去海水浴的朋友的来信,叫我一定要去,我筹了些钱就去了。我筹钱用了两三天的工夫,可是我到达镰仓还不到三天,叫我去的朋友突然接到家乡的电报,让他回去。电报说是母亲病了,可是我那位朋友不相信。早先,他家乡的父母曾不征得他的统一,硬要给他成亲。按现代的习惯,他结婚还过于年轻,更主要的是对象本人不称他的心。因此它在暑假里故意逃避回家,跑到东京附近游玩来了。他把电报拿给我看,问我怎么办。我也不知道怎么办才好。如果他母亲真的病了,他当然应该回去。因此他终于回去了。这样一来,我特意赶到这里,反倒成了孤单单一个人了。
离学校开学还有许多日子,由于我处于呆在镰仓可以回去也可以不回去的境况之下,我决定暂时留在原来的宿处。我的朋友是中国的(日本地名)一位资本家的儿子,手里很有钱。可是由于还在上学和年龄的关系,生活用度也跟我相差无几。这样,我单独一个人流下来,就没有必要麻麻烦烦地再去另找恰当地宿处了。
宿店在镰仓也算是处于偏僻地角落,打弹子活吃杯冰激凌这类时兴地东西,要过一条很长地田间小路才办得到。光坐车也得花两毛钱。不过这里散落地建了一些私人别墅,而且这地方离海很近,洗海水浴很方便。
每天去下海。穿过陈旧、烟熏地草房,就到海滩。来避暑地男男女女在沙滩上活动着。想不到这儿竟住着那么多城里人。有时也想澡堂子那样,海面上呈现万头攒动地镜像。虽然其中没有一个相识的人,但我也裹在这喧闹景色中,有时随便躺在沙滩上闲眺,有时让浪波拍打着膝头,在这里乱蹦乱跳,玩得到也愉快。
原来我就是在这纷繁地人群中看到先生地。那时海边有两家茶馆。由于偶然的机会,我习惯于上其中一家。跟长谷那边拥有大别墅的人不同,来这儿消夏的客人没有各自专用的更衣棚,必须使用这种公共更衣处。他们除了在这儿喝茶、休息之外,还在这里洗游泳衣、洗净带盐分的身子,或者把帽子和伞存放在这里。我没有游泳衣,由于怕带来的东西被偷掉,所以每次下海也把脱下的衣服设备那么的仍在那家茶馆里。
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